麒麟がくるは、裏切り者を題材として、中高年の私たちに、何を問うのか。

麒麟がくるは、本当に無惨にも酷くなった超情報錯綜時代において、最も生きにくく苦しむ中高年へ、リテラシーを問う作品である。

 

この超情報錯綜の時代は、超多様で超複雑な世界である。そのエクストリームな複雑系をこじ開けるには、事象を自分の角度で新たに見ることが求められてる。他人が語る一面的なロジックを疑い、他人の虚飾を見抜き、自身がそのモノゴトを再定義する力が求められる。その再定義の力は、個々の意思と思考と決定が基盤となる。

 

しかし、現実は、多くの人々は迷い悩み、正解が過剰に求める。分かりやすさを探し彷徨っている。少しでも理解を覚え安心を得たいと願う。その結果、答えが均一で単純になっている。残念ながら、それはリテラシーの低下に繋がる。理解とは病理の元だ。自身の意思と思考と決定ではなく、他人の正解とルールに縛られる。その正解とルールは、刹那的で脆い。本音は誰もが本当は自分自身で考えて決めたい。

 

複雑系な社会と同義である戦国時代に、明智光秀を、いままでの裏切り者ではなく、その前途多難な情報錯綜時代を、こじ開け生き抜こうとするいち武士として描く。シンプルに、彼の情熱、大義、仲間に対する真摯な姿勢と、行動を見せつける。なによりも自分の考えを信じ、時代に抗うように生きている。多くの間違いを犯しながらも、突き進む。時に家族のために自身を犠牲にし、貧しく思い悩み、苦しむ。

 

一方で、日本国民の殆どが、日本のリーダーとして最も相応しいという思う織田信長、戦国時代で最も分かりやすい存在を、権威という他者を承認させるものを求め固執する人間として描いている。まさに不安な現代人の病理を象徴とする。

 

この作品は、今までの固定観念を打ち破ることで、メディア・NHKが、自分の意思で生きたいと願うロストジェネレーションのなれ果てとしての中高年に、リテラシーを問う意欲作である。

 

蛇足ではあるが、俳優のトラブルによる帰蝶の降板と、新型コロナウイルスによる前代未聞の放送改編は、その混迷を極めた時代が求めたようにさえ思える。